戦後、本格的な干柿つくり
上山でもっぱら干柿をつくり販売するようになったのは、戦後の
ことです。
この時期、お菓子のない時代であり、甘い食べ
物として干柿は珍重された。
「干柿の栽培地は上山を中心として、山形、天童、山辺の範囲
である。他の土地ではあまり成らない」
「上山は海抜200メートル程度で、日当たりが良い。朝には蔵王か
ら日が昇り、夕方には、西のとんがり山に沈む。
何より朝も
やの少ないことが、干柿の晶質を良くしている」
全国的な干柿の生産地は、福島、長野、山梨と山形(上山)である
のに、山形の「干柿」は量的には少なくとも、品質的には
トップの評判が高い。
青果物の産地づくりにはよくあることであるが、「紅干柿」
を特産物に育てる先駆的な努力は、上山の青果物移出商と集
荷業者が果たしてきた。
これらの業者が中心となり、昭和三十五年、上山青果物出
荷組合(初代組合長-武田重三郎氏)をつくった。
こうした移出商中心の組合が、土産品としての地元
販売のみならず、県外出荷についても先鞭をつけた。
販路の拡大とともに、原料の生柿を周辺地区から集荷し、
この地域の農家に譲渡して加工させ、干柿となったものを買
い取るという方式を編み出したのも、これらの移出商と集荷
業者である。
この方式の確立によって、三十年代の後半から、上山市の
干柿の生産量は急増した。
また、乾燥技術についても、いろいろな工夫を続けてきた。
自然乾燥のみでは仕上がりの色沢が黒ずむので、昭和二十五
年ころから、硫黄くん蒸をする方法が地元上山 農高などの指
導ではじまっている。
かつて干柿は、わら縄につるしたものであるが、二十七、
二十八年ころから、現在のセロハン縄にかわった。
上山 農協が干柿の共同販売をはじめたのは、昭和四十二年から
である
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